ペナンのジョージタウンには、Lebuh Cintra(日本横街)と呼ばれる通りが存在します。この通りは、ユネスコ世界遺産にも登録されているジョージタウンの中心部に位置し、チュリア通りとキンバリー通りを結ぶ狭い一方通行の道です。現在では観光客に人気のある場所ですが、かつては赤線地帯として知られていました。特に19世紀末から20世紀初頭にかけて、この地域は「からゆきさん」と呼ばれる日本人女性が売春を行っていた場所としても有名です。
からゆきさんとは、貧しい農村部から海外に売られた日本人女性たちのことを指します。彼女たちの多くは、九州地方の特に長崎や熊本、天草などの出身で、厳しい税制や農業の不作、貧困が原因で家族により海外に売られることになりました。こうして「唐行き」と称される海外への道を歩んだ彼女たちは、東南アジアを中心に、中国やシンガポール、ペナン、さらにはシベリアやザンジバルといった遠方まで連れて行かれました。
ペナンはその中でも重要な拠点の一つであり、Cintra通り周辺には多くの日本人娼館が軒を連ねていました。彼女たちは厳しい生活環境の中で働きながらも、故郷に仕送りを続け、家族を支えました。彼女たちが稼いだ収入は、ペナンにおける日本人経営の正規ビジネス(医療、歯科、ホテル、写真店など)の資金源となりました。20世紀初頭、ペナンには200人以上の日本人が住んでおり、その多くが性産業に従事していたと言われています。Cintra通りはそのため、「日本街」や「Jipun Sin Lor(日本新路)」としても知られていました。
しかし、1920年代に入ると、日本国内でのナショナリズムの高まりとともに、からゆきさんの存在が恥ずべきものと見なされるようになり、彼女たちは次第に姿を消していきました。多くの女性は日本に強制送還されましたが、帰国後も差別に苦しむことが多く、一部の女性は地元に留まり、現地の男性と結婚するか、別の仕事に就く道を選びました。
ペナンには現在も、彼女たちを弔うための日本人墓地が残っており、その多くがCintra通りで働いていたからゆきさんたちの墓です。彼女たちの多くは若くして亡くなり、その人生は決して楽なものではありませんでしたが、九州には今も彼女たちの犠牲を称える記念碑が建てられ、その名が刻まれています。ペナンを訪れる際には、歴史の影に生きたこれらの女性たちの存在に思いを馳せることも一つの旅の意義となるでしょう。